衝撃的だったタイポスの登場
人生に衝撃的な出会いと言うものが、どの程度あるのだろうか。
16、7歳ころだったと記憶している。いつものように新聞を広げていると、資生堂の広告だったと思うが、見慣れない仮名文字が目に飛び込んできた。明朝は従来通り石井明朝である。しかし仮名が違う。何だこれは、と、体中に電撃が走った。
しばらく、ぼう然と紙面を見入ってしまった。きれいだ、いままでの仮名とはまるで違う。なのに、見事に一体化している。これが「タイポス」だった。プロの作った、計算されつくした書体であることはすぐわかった。
この「タイポス」は、伊藤勝一氏、桑山弥三郎氏、長田克巳氏、林隆男氏という錚々たる日本を代表するデザイナーをメンバーとする「グループ・タイポ」により開発された。1962年に発表、1969年には当時の先端技術であった、写植の文字盤化が実現した。以後、この書体は爆発的な人気を得るのである。
数書体しかなかった和文書体
タイポスの出現までは、当然のことながら、日本の印刷物は明朝、ゴシック、正楷書、教科書体、新聞書体など、伝統的な書体でしか表現できなかった。アルファベットが大文字・小文字合わせても52文字しかないのに対し、日本の文字は必要最低限でも3,000字はある。
この、文字の数が、書体の数と比例すると考えても少しもおかしくない。欧文書体が、それこそ無数に存在するのに比べ、当時、和文は数書体しかなかった。タイポスはそこに風穴を開けたのである。
恐らく、誰もが和文の新書体は無理、つくれっこない、そう信じていた。それは、全ての文字種をつくらなければならないという固定観念からであった。タイポスは大胆にも、従来の漢字に、言葉は悪いが、寄生するという形をとった。仮名文字の先駆けであった。この試みが、以後、フォントメーカーのみならず、個人レベルの新書体開発にまで火をつけることになるのだった。
目覚ましい印刷業界の技術革新
どの業界もそうなのであろうが、とりわけ印刷業界の技術革新のスピードは目覚ましい、というより異常である。写真植字の寿命は一体何年だったのだろう。あっという間に Mac や Windows などの Desktop Publishing(DTP)に取って代わられてしまった。もう現在では写植で組版をしているところは殆ど存在しない。
パソコンの急速な普及とともに、新書体も雨後の筍のように増殖していった。しかし、私は、その流れに乗ることはできなかった。いくら、パソコンが普及したからといっても、文字つくりは容易ならざるものであることに変わりなく、大きな決意が必要であった。仮名書体でも数か月、総合書体に至っては、複数年単位の地道な作業を要求される。そこまで踏み込む勇気はとてもなかった。
37年目の決意
私が書体を手掛けるようになるのは、タイポスの発表から、実に40年近く経過した1999年であった。タイポスに啓発されていながら、随分と悠長なことである。ともあれ、遅ればせながら自分なりの機は熟したようだった。
手始めは、やはり明朝だった。明朝にはこだわりがあった。石井明朝に強い憧れがあったが、真似ても仕方がない。自筆にこだわった。自筆の仮名に、明朝の着物を着せた。でき上がったのが、勢蓮明朝M(後の製品版では勢蓮明朝仮名Old-M)であった。
日本タイポグラフィ年鑑で初入選
ある日、ネットで検索中見つけた日本タイポグラフィ協会で、作品を募集していることを知った。応募してみた。そして入選してしまった。入選以上は、次の年の「年鑑」に掲載される。私の作品は「日本タイポグラフィ年鑑2001」に載った。そこには、常々注目していた、高原新一氏の作品があり、「審査員賞」を獲得されていた。作品評を、件の桑山弥三郎氏が寄せていた。その文の冒頭に次のような記述がある。
『今年はタイプフェイスの当り年といえる。研究実験作品の中から七種泰史「笑点」が特別賞に選ばれた。他にもこの部門に金井和夫「明朝体」がある。これは明朝体の美しさを追求した中々の力作である──』「勢蓮明朝M」と正確に書いて欲しかったが、タイポス開発の主力メンバーである、桑山氏に注目していただいたことは、やはり因縁なのかなと、勝手に思った。
勢蓮明朝仮名Classicシリーズの誕生
後に、この勢蓮明朝Mをブラッシュアップしたものが、勢蓮明朝仮名Classicシリーズである。表示がやたら長いのは、前者(後に勢蓮明朝仮名Old-Mとして商品化)と区別するためであり、敢えて、仮名とつけたのは、将来漢字を作ったときに書体名を区別するためであった。しかし、漢字の制作は未だに実現に至っていない。文字つくりだけではなかなか飯は食えない、それが最大の原因である。理想と現実は、かくも乖離し、かくも厳しいものである。
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