活版が主流の時代に就職
もう、半世紀も前のことである。(2017年現在)
私は、家が貧しかったこともあり(本当は勉強が大嫌いだった)中学を卒業すると、隣町の印刷所に就職した。この当時はまだ活版が主流で、当然のことながら文選(※1)・植字(※2)という、活字を扱う組版作業から覚えていった。
命の恩人、寺島医院
私は幼少時代、大病を患った。親の話では、奇跡的に助かったのだという。助けてくれたのは、千葉県市川市にあった「寺島医院」だったことを、しょっちゅう聞かされていたので、いまでもこの名称は鮮明に覚えている。改めて思い返してもありがたいことである。
病弱が漢字との出会いを早める
流れからいけば将来は医師を目指す、となるのだが、幼すぎたのでそこまでは考えが至らなかった。しかし、相変わらず病弱な子供であった。家の外で元気に、とはいかない。だから必然的に家の中で遊ぶことになる。
よく本を読んだ。貧しいので、子供の読むようなものはなく、両親がたまたま持っていた本を読むことで、結果的に大人でも知らないような漢字を次々と習得していった。その知識は小学校就学前にもかかわらず、既に相当なレベルまで達していた。親が、何と読むのか聞いてくる有りさまだった。
デザインとは無縁の仕事に
私の将来進むべき道は、この時もう決まっていたのかもしれない。やがて興味は漢字の読み書きから、書体へと移り変わっていき、通信教育でレタリング(デザイン文字)を学ぶことになる。15歳で、この教育機関(日本通信美術学園:現在は廃止)主催の展覧会に出品、奨励賞、旺文社賞をいただいた。
当然、将来はデザイナーを目指すところなのだが、あまりにもデザインの力に自信がなかった。地域的なハンデ(当時はそう思い込んでいた)もあった。そこで、件の印刷所への就職となるのである。文字に関連性のある職種で確実にお金を稼ぐ方向にいかざるを得なかった。しかし、思惑に反してデザインとはほとんど無縁の仕事であった。
ターニングポイント「モリサワ」
19歳になったころだったと思う。当時まだ走りだった、写真植字機(※3)を会社が導入することになった。そして、私がその部署の責任者に任命された。機種選定で、私は、文字の美しさでは格段の差がある「写研」を推した。しかし、いかんせん、まだ20歳前の若造である。発言権など皆無に等しい。結局、機械本体の価格が手頃な「モリサワ」に決まってしまった。
今、考えると「モリサワ」に決まったことが、私のターニングポイントであった。字形では圧倒的に劣る文字盤で仕事をせざるを得ない環境が、文字への執着を増幅させた。
粗悪だったモリサワの明朝
写植で組版をすることで、私の本来やりたかった、デザインの仕事が増えた。しかし、改めてデザインをしてみると、その紙面を構成するフォントの質がデザインを左右してしまうことに改めて気付かざるを得なかった。
とりわけ、当時の「モリサワ」は明朝がダメであった。これは、デザインをする上で致命的だった。「写研」の石井明朝に強い憧れを抱いていた私の落胆は大きかった。
出入りしていたモリサワの営業にしょっちゅう文句をいった。「今村さん」だったと記憶している。年端もいかない若造に毒づかれ、さぞ悔しかったことと思う。いまさらながらお詫びしたい。だが、この「文句」は、私だけではなかった。業界や時代の要請だったのである。
「モリサワ」自体、新しい明朝の開発にようやく着手したところであった。恐らく会社の死活問題だったに違いない。しかし、私が印刷会社に在籍した5年の内には完成しなかった。
印刷会社を退社後、修行のためにデザイン事務所に8か月在籍した後、1973年7月、中古の、それも試作品のようなモリサワ写植機を二束三文で手に入れ、その1台を頼りに、「版下(※4)屋」(デザイン会社と名乗る自信はまだなかった)を立ち上げた。21歳であった。新しい明朝である「リュウミン」が発売されたのは1982年。なんと、独立から9年も後のことである。
意に反してゴシック主流
ないものねだりをしても始まらなかった。「リュウミン」がリリースされるまでの長期間、苦肉の策で、私のデザインは、ゴシック系が主流になる。ゴシックは正直いって、嫌いだった。でも、ゴシックの形状は、さほど悪くなかったので「よりマシ」でいくしかなかった。このストレスが、後のフォント作りの遠因になったことは疑いない。
明朝だけでは片手落ち
さて、勢蓮呉竹(ゴシック)。当初、勢蓮は明朝のみと決めていた。いずれは漢字までとうっすら考えていたので、もともと嫌いなゴシックに手をつける気はなかった。だが、勢蓮明朝を制作していく中で、フォント作りが想像以上に大変で、奥が深いことを実感した。明朝だけでは片手落ちだな、そう思うようになった。
結局、勢蓮呉竹の制作に取りかかった。勢蓮明朝のフォルムに忠実にしたがった、曲線の多い不思議な「ゴシック」ができ上がった。本来ゴシックのフォルムは、勒(ろく)と呼ばれる横画や、弩(ど)と呼ばれる縦画は直線的でなければならない。それが、私の勢蓮呉竹は、明朝のフォルムをなぞったことによって、すべて曲線なのであった。
ゴシックというより、「抑揚のない明朝」と呼んだほうが正しいかも知れない。この期に及んでもまだ、ゴシックに対する嫌悪感が消えていなかった。
最近(2017年現在)になって、ぼちぼち売れるようになってきた。私的には、決して嫌いではない、ゴシックには似つかわしくない優美な形状の書体だと思っている。が、やはりこの書体が認知されるまでは、長い期間が必要だったようである。
因果応報⋯邪険の報い
いまは、呉竹をつくって良かったのだと思う。このことが、後にゴシック系の大作(そう思っているのは多分私だけだが)「和音シリーズ」の制作へとつながっていく。
勢蓮呉竹の制作は、労多く功少ないフォントづくりの泥沼にのめり込んでいく切っ掛けになってしまったことは、さんざんゴシックを邪険に扱ってきた報いかも知れない。ああ、因果応報⋯。
でも、本格的な明朝をつくりたいなぁ…。
活版印刷の工程の一つ。原稿をみながら、活字棚に置かれたケースから活字を拾い、文選箱に収めていく作業。
※2:植字(しょくじ・ちょくじ)
活版印刷の工程の一つ。文選が拾った文章を、実際の製品の形に沿った印刷原版を組み上げていく作業。
詳細は、別記事、“活版回顧録(仮題)”を参照。または、こちらのサイトのご訪問を。
株式会社 精興社 http://www.seikosha-p.co.jp/corporate/process.html
有限会社 嘉瑞工房 http://kazuipress.com/basic/kappan.html
なお、文選・植字とも、ハローワークの求人職種一覧には、もう掲載されていない。
※3:写真植字機(しゃしんしょくじき)
文字などを印画紙やフィルムに印字して、オフセット印刷に使用する写真製版用の版下を作成する機械。
※4:版下(はんした)
意味は時代と共に変遷していく。もともとは、浮世絵版画の版木を彫るために描かれた下絵のことをさした。
活版印刷の時代は、大見出しに使用する凸版原稿や写真を製版する網版などのことをいった。
写植時代は、紙の台紙に写植機で印字した文字や、手書きの図版などを配置した、写真製版のもとになる版をさす言葉になった。主にオフセット印刷に使用された。
DTPの時代に入ると、パソコンで組み上げた印刷用のトンボ入りデータそのもののことをさすようになった。用途はオフセット印刷・オンデマンド印刷など広範囲である。
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