第10回
6. 写植による版下の制作
ここで、写植による版下(はんした)の制作にふれておきたい。版下を紙に描くという行為は、活版にも、これから出てくる DTP にもない、ある意味独特なものであった。これは、写植のみでは、版下を完全に完成させることが不可能だったため、打ち出した印画紙を貼るという行為が必然だったからに他ならない。
版下とは、もともとは 浮世絵版画などの書画を版木に彫るために描かれた下絵のことを指した。この呼び名が印刷業界で使われ定着したようである。現在でも Illustrator など、DTP ソフトで制作したものを「版下データ」と呼ぶが、「印刷データ」「aiデータ」や単に「データ」と呼ぶことが多いはずで、「版下」は、ほとんど死語に近くなっている。
厳密には活版時代にも「版下のような業務」はあったが、活字では表現しきれない部分を補うものだった。凸版をつくるための書き文字や、見出し用の初号や1号など大きい活字の清刷に地紋をいれて合成したり、図版を個別に制作していた。あくまで限定的なものだった。
さて、このあとは、A4判3ッ折のリーフレットを作ると仮定して工程を簡単に追う。
なんでも捨ててしまう私が、奇跡的に手元に1枚だけラフスケッチを残していたのでそれをもとに紹介していく。写植は手動写植を前提とした。のちに電子制御の半自動機が登場し詰め打ちが可能になっていく。罫線もスポット罫という技術が取り入れられ、均一な罫線を引くのが大幅にラクになった。
その前に、版下デザインに欠かすことのできないアイテムを紹介しておく。
写植による版下デザイン(アナログデザイン)に必要だった材料
版下とは印刷のもとになる原版のことである。版下を制作するために必要なのは、写植機により印字し現像した印画紙は当然のことだが、そのほかに必須だった文具類をあげてみる。
①レイアウトシート(以下:台紙) ②スプレー糊 ③ペーパーセメント ④ペーパーセメントソルベント ⑤ラバークリーナー ⑥定規類 ⑦ペン類 ⑧カッター類 ⑨カットシート ⑩インク類 ⑪マジックインク各種 ⑫トレーシングペーパー(以下:トレペ)
などである。
①レイアウトシート
方眼目盛りが薄い青色で印刷された厚紙のこと。ケント紙などの上質紙でできていた。私は、デザインをする際この目盛りが邪魔で、白紙のケント紙を使っていた。
②スプレー糊
印画紙の裏に塗る糊。粘着性が弱いのでレイアウトシートに貼った後でも、簡単にはがして貼り替えることができた。スプレー式で手軽にスピーディに均一に塗れる優れものだが、うっかり部屋の中でこれを使うと、そこら中がべたついて悲惨なことになった。
ほかにも、レター糊(工作用のゲル状糊)も使用した。
飛散防止の専用ボックス(底の深い段ボールの箱で代用できた)の中か、わざわざ外にでて塗布しなければならなかった。枚数が多いときや、風が強いとき、雨のときなどは、本当に難儀した。便利なのか不便なのかよくわからないアイテムだった。
③ペーパーセメント
スプレー糊の出現まで印画紙の貼り付け用に使っていた。材質は主にラバーゴム。スプレー糊同様、貼ったりはがして貼り替えたりすることが自由にできた。
④ペーパーセメントソルベント
揮発性のシンナー。ペーパーセメントを薄めるためや、厚く塗り過ぎてはがれにくくなったときなどの剥離用に使用した。
⑤ラバークリーナー
ペーパーセメントを塗り、固定するために押さえた際のはみだしを掃除する消しゴムのようなもの。ラバーゴム製なのでペーパーセメントをよく吸着した。
⑥定規類
直定規や三角定規。製図台でデザインしていたので、たまにT定規も使った。
⑦ペン類
トンボなどの直線や図形などを描くために使った。私は主に烏口(からすぐち)と呼ばれる製図用具を使用したが、のちにロットリングという、書ける太さが数種類あるウォーターペンが出現した。
ペン先の部分がノズル状になっており、定規に直接触れてもインクが滲まない構造になっていた。また、供給されるインク量が一定を保てるため均一な線が引けた。私は利便性を感じなかったのであまり使わなかったが、烏口が苦手な人には重宝されたようである。
ほかに、丸ペンも抑揚が必要な簡単なイラスト用に使用した。
ちなみに、烏口は、先のとがった2枚の刃状の金属を組み合わせた筆記用具。横から見たときの形状がカラスのくちばしに似ていることからこう呼ばれた。製図用インクに付属している道標のような形をした小さく透明なプラスチック板の先端にインクをつけ、2枚の刃の先端にインクを移す。
ロットリング同様定規に直接触れてもインクが滲まない。長い線が均等に引けたうえ、2枚の刃を固定しているネジつまみを回転させるだけで線の太さを自由に調節できる、優れた筆記用具である。
ただ、値段の安いものは材質が軟らかく、長く使っていると先が擦り減って線が太くなってしまう。専用の目の細かい砥石で研ぐ必要があった。2枚の刃を均等に研がないときれいな線が引けなくなる、割と繊細で気を遣う作業であった。
私は烏口で1mmの中に6本、線をひくことができた(あまり自慢にはならない。うまい人は8本は引けた)。これをやるには0.1mm罫が引けなければならない。ロットリングではこんな芸当はできなかった。(ロットリングの0.1mmはどう見ても0.1mm以上あった)
⑧カッター類
カッターは、どの職場、どの家庭にもひとつはあろうかというほど広く行き渡っている。替え刃は、すごい発明といって良い。ポキポキと折って使う勝手の良さは賞賛に値する。これをしたことによって、売上げは相当落ちただろうに…。
デザインの現場には、このどこにでもあるカッターのほか、ペンタッチのカッターもあった。形状がペン状になっていて、その先端の丸い部位が4つに割れている。その割れ目に件のポキッと折ったカッターの刃を挿入して使った。これに使うカッターの刃は、一般的なカッターの刃より鋭角になっていた。固定には、持ち手(滑り止めにギザギザ加工した金属部分)がねじになっていて、それを回すと締めたり弱めたりできた。
用途は、主に細かい作業用。そのためにペンの形状をしている。印画紙の膜面をはがすのに使った。先に説明したペーパーセメントやスプレー糊ははがせることが前提に作られたもので、貼りつく力が弱い。ラバークリーナーで掃除する際、地図の名称などの細かい部分は、はがれてしまうことがあった。
そのため、このカッターで印画紙の膜面のみをはがして薄くし、レター糊で完全固定した。膜面の裏に糊つけする時は、あらかじめ印画紙の切れ端の上に適宜、糊をだしておき、カッターの先でチクンと刺して糊の上でこすればまんべんなく塗れた。このような、細かい作業にうってつけのカッターだった。
⑨カットシート
現在でも、普通に使用されている、紙をカットする下敷き。スプレー糊やペーパーセメントを塗布した印画紙でも、カットしたあと容易に剥がせ重宝した。
⑩インク類
製図用インク、墨汁、ポスターカラーなどを主に使用した。製図用インクは烏口や丸ペンなどで輪郭や線画用に使用、墨汁、ポスターカラーの黒はブレンドしてベタ塗り用に、ポスターカラーの白は、はみ出した線や面の修正用にそれぞれ使用した。
⑪マジックインク
ベタ塗りには、マジックインクを使うこともあった。墨汁やポスターカラーのように真っ黒ではないが、製版時(次回詳細に説明)に支障がない黒さだわかると、これにシフトした。面積が広い部分は、POP を描くために開発されたのであろう太いマジックが重宝した。ベタ塗りの時間が大幅に短縮したのはいうまでもない。
⑫トレーシングペーパー
本来の用途のトレースにももちろん使ったが、版下が仕上がったあとの保護・化粧用に版下の上からかけて使用した。この紙に色指定や印刷指示なども書き込んだ。
版下の制作工程1 ラフスケッチ
まず、ラフスケッチ(以下:ラフ)を起こす。この作業をどれだけしっかりやるかが、のちのちの工程に大きな影響を及ぼす。
写植はパソコンによる DTP とは異なり、級数や字詰め、行間などをあらかじめ計算しておかないと作業はできなかった。やみくもに打ってもあとで切り貼りの作業が増えるだけだからである。
タイトルなど、大きめの文字はデザイン上詰め組みをする必要があるが、慣れてくると、勘でカーニングすることもできた。しかしそこはあくまで「勘」。詰め過ぎてくっついてしまうこともあり、正確でないし効率的でもないので、切り貼りに頼らざるをえなかった。
したがって、印字結果が見えない手動写植では詰め具合を予測して級数(文字サイズ)を割り出さなくてはならない。ラフではここを手抜きすると、のちほどでてくる1文字ずつの切り貼り作業の際、大きすぎたり小さすぎたりして、結局打ち直しになる。
ラフができあがったら、その指定に基づいて、写植を打っていく。
文字サイズ表記は「Q」、行送りは「H」、線の太さなどの単位は「mm」を使用していた。これは、写植・デザイン業界のデファクト・スタンダードであった。フォント名は、社内のみわかる符丁(隠すという目的ではなく単純に便利なように)を使った。
見出しは、写植オペレーターの手間が1回で済むよう書体にかなり忠実な描き方をして、文字サイズを決めた。右側の本文もツメ指示をしている。この場合、単純に級数×文字数で割り出せない。仮名の分量を考え、この行はプラス何文字という想定のもと行数を割り出し、ラフを起こす必要がある。
版下の制作工程2 台紙にデザイン
上記ドキュメントはA4判3ッ折の指定なので、A4用の台紙(レイアウトシート)を用意する。このシートはA4より一回り大きいサイズのB4になっており、方眼のほかトンボの位置も薄い青色で印刷されていた。(トンボが黒で印刷されたものもあったのかな? 私は白紙のケント紙を使用したため、レイアウトシートを使わなかった。なので記憶にない)
次に、トンボを墨入れ(黒で書いたり、塗ったりすること)する。ラフにしたがって、写植では打てない部分を墨入れする。たとえば罫線や、写真や白抜き、網掛用の枠(アタリ罫と呼んだ。製版指示用の罫線で実際には印刷されない罫線のこと)など。また、地図やデザイン文字なども書き入れる。
印字した写植を貼っていく。見出しは、詰め打ちができないので、一文字ずつ切り貼りして詰める。量が多いときはイライラを通り越してはらわたが煮えくり返る面倒な作業だった。
ペーパーセメントを使用した場合は、はみだしが必ずあるのでラバークリーナーで掃除する作業も必ず最後に残った。地図の名称など細かい文字を掃除すると、文字ごとはがれてしまうことがよくあった。こうなると、ペーパーセメントではもうムリ。印画紙の膜面をはがし、厚さを薄くしてから二度とはがれないようにレター糊で貼りなおした。
完成後、トレペをかけ、製版指示をする。
以上が、版下の通常の工程である。いま考えてもよくやってきたなと思う。しかし、これだけで終わりではない。ここから先にまだ、地獄のような工程が待ち構えているのである。
以下の画像は、上記ラフに基づいて作成した実際の印刷物である。
なお、この仕事は、実は先に少しふれた「電子制御の半自動機」で制作したものである。「手動機」では本文クラスの長い文章をツメ打ちするのは、よほど熟練したオペレーターでなければ不可能だが、「電子制御の半自動機」なので、比較的簡単にこなしている。ただ、「均等配置(最終行左揃え)」で組む場合は、右側が揃うとは限らないので各行の微調整が必要である。
また、これは紙の「台紙」は使っていない。ロゴを貼り込んだ以外は、トンボを含めて罫線まですべて写植で打ち出したので、印画紙に切れ目なく「1枚物」として仕上がっている。「電子制御の半自動機」については第14回で詳しく説明する。
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