第8回
5. 写植への転向
入社して3年目に入った1970年(昭和45)のことである。会社が写植機を導入することになった。その写植オペレーター第1号として私に白羽の矢が立った。デザインの能力を買ってくれたのだと思う。写植を入れるということは、紙のデザインが必須になるということである。
私は心が躍った。ようやくデザインができる。そう思った。私は、憧れていた写研の文字が使えると当然考えていたが、会社は意に反して、写研ではなくモリサワに決めてしまった。デザインの品質が落ちてしまうことが、この時点で決定した。現在の充実ぶりからは想像もつかないとは思うが、当時のモリサワの文字レベルは極めて低かったのである。私は心底落胆した。
当時、写植といえば、写研とモリサワの2大メーカーがほとんどのシェアを占めていた。2大メーカーとはいってもその差は天と地ほどのものだった。8割くらいのシェアを写研が占めていたのである。ただ、機械そのものや付随する文字盤はモリサワのほうが安かった。その値段で決めたのだと思う。デザインというものがわかっていなかった、当時の会社の判断としては仕方のないことだった。
モリサワでの研修
モリサワ東京支店(現・東京本社:本社は大阪市浪速区)での1か月間の研修が始まる。モリサワ東京本社は、JR中央線・総武線(JR東日本)「飯田橋」駅より徒歩2〜3分の目白通り沿いにある。飯田橋は、ほかにも東京メトロ、都営地下鉄線が乗り入れている、副都心の利便性の高い駅であり、周辺には多くの企業が集結している。
1日がかりの研修であった。初めて「通勤ラッシュ」というものを経験した。これが1か月も続くと思うと、初日からげんなりしたが、通勤されている大多数のひとたちのことを考えると、そんなことはいっていられないなと思った。
研修を受けにきていた人たちの年齢層は10代から50代までと幅広かった。15名ほどのクラスだったと記憶しているが、そのなかで私が18歳と一番若かった。
40代以上の人も何人かいたが、若い人ほど真剣でないように思えた。今までの長い歴史に支えられ培われてきた活版のなかに、「土足でズカズカ踏み込んできた」写植をにわかに受け入れることはできなかったのだろう。会社にいわれて仕方なくきたという雰囲気がただよっていた。
研修に入った。機械本体の操作、印字する際の計算方法、文字盤の配列の記憶、課題(テキストによる)の計算・機械での実際の印字、現像・定着の方法など、覚えることはたくさんあった。今でこそ、モニターを見ながら自由自在に文字をいじくれるが、この当時は、正確に文字送りや行送りを計算し、正確に印字しなければ、打ち直しや、余計な切り貼り作業につながるので、計算方法の指導は厳しかった。
文字盤の配列は、とにかく記憶するしかなかった。1枚のフレームに収まった1書体は約3400字。これにあまり使われない漢字類や約物(記号類)を加えると5000字にもなる。これの配列を覚えるのは大変だったが、文字を読めなくても文字を拾える(探せる)、優れた工夫があった。それが「一寸ノ巾」方式である。
件の40歳代のメンバーのなかに愉快な人がいて、冗談で「一寸ノ巾」のことを「ちょっとの巾」と呼んで、講師の先生に叱られていた。一同は大笑いであった。緊張感の漂う研修のなか、和気あいあいな雰囲気をつくる彼の存在は貴重なものだった。
「一寸ノ巾」方式とは、漢字の特徴のある部首順の配列で「一・寸・ノ・巾・ナベブタ・シンニュウ・ハコガマエ…」というようにその部首名が調子のいい「数え歌」のような覚えかたができるようになっていた。文字盤は、その部首ごとにブロックになっている。完全に部首に入っていない漢字でも、形が似ているものどうしが一緒になっているので、さきほどの「数え歌」での部首順さえ覚えれば、連想でだいたいの位置がわかるようになる。
それができれば、あとは細かい部分を記憶すればよかった。だが、正直、1か月で習得できるものではなく、実際の仕事での実践に委ねられることになる。
研修が終わり、社に戻って、とにもかくにも写植生活が始まった。活版組たちのひやかしは毎日のようだった。長年にわたって活版ひとすじできた人たちである。当然海のものとも山のものともわからないものが入ってきたのである。面白くないはずがなかった。
印刷は、とかく騒音が大きいというイメージがある。ニュース報道などで轟音を立てて印刷する輪転機のイメージが刷り込まれているからだと思う。しかし、私が勤めた印刷会社は、入社当時こそ、狭い空間に印刷機や活字の馬などが混然としていて確かにうるさかったが、2階建ての大きな工場に移転してからは、印刷機は1階、文選・植字は2階に分離された。
私の属した文選・植字工程部門は、騒音が解消されていたのだった。
写植は、逆に静かなイメージがあるが、そうではない。次回詳細にふれるが、文字盤を固定するときの「ガチャン」という音、歯車が回るときの「ギー」という音が間断なく続くのである。結構な「騒音発生機」であった。
活版組たちからは、「ガチャコン、ガチャコンうるせーな!」としょっちゅう苦情をいわれた。
救いだったのは、あきらめムードもあったのだろう、悪意がそれほどなかったことである。それで、大過なく仕事をこなしていくことができた。
文字には不満、しかし充実した写植生活
仕事は、社内報などの文字ものが多く、デザインをするようなものはあまりなかったが、たまにチラシやパンフレットがくると気持ちが高揚した。その中で一番印象に残っているのは、1971年にデザインした千葉県船橋市の市勢要覧である。
現物をどこかにしまい忘れて、手元に残っていないが、A4変形の32ページだったと記憶している。すべて一人で制作した。あとで見返すとまことに未熟なデザインであったが、当時は本当に楽しく充実した毎日だった。
モリサワの文字は嫌いだったが、ないものねだりをしても仕方がない。ただ、表紙だけはこだわりたかった。「市勢要覧」は太ゴB101を使ったが、「船橋」と「1971」はレタリングした。モリサワの文字では表現が不可能だった。「船橋」は特太明朝で、「1971」はユーロスタイル風にした。
写植機の前身(?)タイプライターのことをちょっと
写植の正式名称は「写真植字」。機械を表す場合は「写真植字機」となる。カメラとタイプライターを組み合わせたものである。とはいってもタイプライターがどんなものかを知らない世代が大多数になっている現在、説明をするのには困難を極める。
タイプライターは、活字箱にたくさんの活字を並べて、目的の文字を機械でつまみ上げ、用紙に打ち付けるという方式の印字機械である。年代物の洋画などにはよく登場するから、英文タイプライターはおよそどんなものが想像がつくと思う。比較的スマートな機械だった。スマートなのは英文がアルファベットと若干の記号類を足しても50文字程度だったからである。
和文タイプライターは1915年(大正4)に大正、昭和初期に活躍した発明家・杉本京太が考案した。
英文タイプライターに比べて、和文のそれは文字数が極端に多い。だから「活字箱」という表現になる。2,400文字入っていた。この他に外字の入った箱もあった。書体を変えるときは重くて大変だった。私は実際に操作したことはなかったが、持たせてもらったことはある。こりゃ大変だなと思ったことをいまでも覚えている。
その不便さや操作の複雑さから、一般に普及することはなく、会社や官公庁で使用されるのみだった。
やがて、1985年(昭和60)、安価なワープロの出現により出番はなくなっていった。
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