第16回
事実上初のフォント制作は欧文だった
話は前後するが、電子組版機「KX-J1010」導入の少し前だったと思う。かねてからのクライアントであった英語の学習塾から、教材の制作を依頼された。当然、主要な部分は英語である。制作に際して条件がつけられた。生徒にアルファベットの書きかたを正確に覚えさせるために、手本となるような欧文書体を使って欲しいとのことだった。
何種類か見本を用意し提出したが、どれも不採用だった。欧文書体の形状は、基本となる5本の基準線からできている。上からアセンダーライン、キャップライン、ミーンライン、ベースライン、ディセンダーラインである。
学長や担当者の指示は、
①アセンダーラインからミーンライン、ミーンラインからベースライン、ベースラインからディセンダーラインまでの3つの部分をそれぞれ同じ幅にする。
②ほとんどの書体は、大文字がアセンダーラインまである小文字より背が低い(キャップラインの位置)ので、これを同じ高さにして欲しい。
③数字はさらに背が低いので、これも同じ高さにして欲しい。
④小文字の ”a” と ”g” は「2階建て」は NG。大文字 ”G” の2画目はTの形状にすること。”I” の上下にセリフ(短い横棒)をつける。”J” の上にセリフをつけ、下部はベースラインより下に出ず、しっかり左にカーブを描くこと。”M” の両サイドのステム(縦棒)は垂直に。”Q” の2画目は ”O” をつらぬいて右下に抜けること。ただしベースラインより下に出ないように。
などという、あくまで手書きのフォルムを尊重した細かいものだった。
こんな書体はあるはずもなかった。デザイン的に破綻をきたすからだ。しかし、学習の手本となると、そんな理屈は通らないのである。これは、現在でいう「学参フォント」であり、ある意味「コーポレートフォント」であった。もう、独自の文字盤をつくるしかない。モリサワに可能か確認すると、いくつかの約束ごと通りに書体を制作すれば OK とのこと。クライアントと協議の結果、オリジナル文字盤をつくることになった。
Monotype 社の著名な欧文フォントデザイナー(現在はタイプディレクター)・小林 章氏によると、欧文でコーポレートフォントをつくる際、完全なオリジナルは滅多につくらず、既存のフォントをベースにカスタマイズしていくのだそうだ。
(日本デザインセンター サイト:Polylogue / 小林 章トークイベント“Moji Design Conversation”──ブランドの声をつくる Vol.1)
当時は小林氏の存在は知らなかったが、ベースは上記指示のイメージに近い「Futura Light(フーツラライト)」にし、大文字・小文字・数字・若干の約物(記号類)の100文字弱をつくった。一からすべて描き起こすことはできなかった。とにかく時間がなかった。そんなわけで完全なオリジナル書体ではなかったが、制作中は今までにない高揚感を覚えた。あぁ、やっぱり私は文字が心底好きなんだなと思った。
モリサワには「突貫工事」でやってもらった。できあがったオリジナル文字盤を手に取ったときは何ともいえない幸福な気分だった。この高揚感が、やがて Mac という汎用性のあるプラットフォームを得ることで、本格的にフォントの制作していく遠因になったことは確かである。
9. Macとの出会い
5年間ほど、電子組版機と「ROVO V」を併用しての業務をこなした。その後の1999年(平成11)、本当に遅まきながら Mac を導入することになる。実は、Mac を敬遠した一番大きな理由は、印画紙に出力するためのイメージセッターへの接続はできたのだが、金額が張り過ぎて手がでなかった。印画紙出力にこだわったのは、レーザープリンターでの出力結果が、印画紙にかなわなかったからである。
文字品質にはとにかく神経質だった。当初見た Mac での普通紙出力は、ジャギが目立って使いものにならない印象だった。このときは、低解像度フォントでの出力試験であった。印画紙出力に盲目的にこだわっていた私には、到底許容できない範囲であった。思い込みとは恐ろしいもので、以来、Mac の情報は無意識的に拒絶した。
しかし、前回も触れたが、フォントの値段がバカ高い、大きい文字に対応できないドットフォントの限界性(たしか、20ptが限界値で、それ以上は設定できないつくりだった)、曲線が描けない、データの互換性がないなど、電子組版機の欠陥は時を追うごとに明らかにされていった。これらはすべて将来性のなさを意味していた。特にデータの互換性のないことは、致命的で重大な欠陥であった。
これらの問題の顕現化で、当然、電子組版機の売上げは激減していく。この当時、電子組版機の開発・製造は、モトヤと九州松下電器の2社が行っていたと記憶している。モトヤは活版の時代から活字や印刷機材を販売する老舗で、対応力も柔軟であったため、デジタルフォントにシフトしていった。片や、九州松下は、対応を失し屋台骨がゆらいでいく。そして、販売会社もそのあおりを受けて倒産に追い込まれていった。
私は真剣に Mac に目を向けざるを得なくなった。そうこうしているうちに、アウトラインフォントは目覚ましい発展を遂げていく。高解像度のアウトラインフォントの出現により、もう印画紙との差はなくなっていた。差があるのは光かトナーか、印画紙か普通紙かの違いだけだった。何より、出力結果にこだわる必要すらなくなっていった。
印画紙だの普通紙だのという考えかたそのものがナンセンスであった。そして、版下を書く必要すらなくなっていった。もう迷う必要も時間的猶予もなかった。
DTPの凄さに驚嘆
DTP とは、Desktop publishing の略。この用語は、WYSIWYG(ディスプレイに現れるものと処理内容[特に印刷結果]が一致するように表現する技術)のさきがけとなったページレイアウトソフト「PageMaker」の販売開始にあたって、開発元の Aldus 社社長ポール・ブレイナードが1985年(昭和60)に提唱した言葉である。
DTP の主な役割は、パソコンでデータを作成し、実際に印刷物を作成することである。導入に際してのデモンストレーションを目の当たりにして、驚嘆したのを覚えている。まさに「カルチャーショック」そのものだった(これは活版から延々と経験してこなければわからない感覚かも知れない)。
さらに Mac は、デザインだけでなくフォント作りを実現できるアイテムでもあった。フォントを作るには、ベジェ曲線が書けるアプリケーションが不可欠である。Illustrator はそれを可能にした。そして、いかに優れたアプリであっても、それを動かす互換性の高いプラットフォームが必要である。Mac がそれを解決した。念願のフォント作りがスタートする。それは、かねてからの課題であった、独自の自社製品を持つことも意味した。
第1回 私のデザイン変遷史を書くにあたって
第2回 幼少期から小学生期
第3回 中学生期 ーガリ版からタイポグラフィへー
第4回 レタリングで旺文社賞!
第5回 デザインへのコンプレックス
第6回 種字彫刻師とベントン彫刻機
第7回 笑えない話 その1(活版編)
第8回 写植への転向 -写研じゃないのかい!ー
第9回 写植の構造と版下製作という特殊工程
第10回 アナログはこんなに大変だった!
第11回 笑えない話 その2(写植編)
第12回 文字への強いこだわり
第13回 試作機のようなモリサワ写植機が原点
第14回 砂上の楼閣 ー面白いように稼げた時代ー
第15回 一転、地獄に ーバブル崩壊への対策に忙殺ー
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