第14回
長期安定成長期経済の初年に起業
私が起業した1973年(昭和48)は、日本経済が高度経済成長を終え安定成長期に入った年であった。この原因をつくったのがこの年に起きた第一次オイルショックである。1979年(昭和54)には第二次オイルショックが起きるが、幸い大きく影響されることなく(悪い状態がどんなものかを経験していなかったこともあるが)乗り切れた。
そして向かえる、1986年(昭和61)の12月から1991年(平成3)2月までの4年3ヵ月間の間に起きた、異常好景気(バブル期)はすさまじいものだった。
仕事はいくらでもあった。デザインワークは好きであったが、あまり欲はなく、残業もしなかった。15年近くは一人で経営をした。あるとき、得意先の営業から、「金井さんは残業しない主義? 本当に欲がないね」と、なかばあきれ顔でいわれた。納期が短い仕事なのでいつもの通り断ったときのことである。当時、私のデザインはどのクライアントからも一定の評価を受けていた。断っても仕事が逃げないことは分かっていた。相手が納期を譲歩せざるを得なかった。
また、ある社長からは「何でそんなに安いの? もっととっていいよ」とも。デザイン単価はむしろ現在より高かったくらいであったにもかかわらず、である。いまであればとても信じられないことであるが、これがバブル期の経営者の異常な金銭感覚であった。
そんな無欲の経営でも月100万(当時の…である)くらいの収入はあった。買い物はすべて現金一括払い、家も難なく手に入れた。まさに調子づいた砂上の楼閣のような時期だった。
ようやくリュウミンが!
起業して9年目を過ぎた1982年(昭和57)、モリサワは待望のリュウミンを発売する。リュウミンは、森川龍文堂の開発した美しい4号活字をモデルにした。森川龍文堂は大阪で創業した金属活字鋳造販売の老舗であった。1959年(昭和34)、2代目社長・森川健一が森澤信夫に文字の見本帳を託したのがルーツである。
私は、明朝体に飢えていた。このリュウミンの文字盤をしげしげと見た。美しいと思った。石井明朝とは比較にならないが、それでも新しい息吹を感じた。最大の心配ごとがこれで一段落した。
このころになると、さすがにもう一人では仕事をこなせなくなり、人を雇い入れた。機械も増やしていった。最初の試作機のような機械は2年ほど使って、お役御免にした。写研の機械の導入を考えたが、やはり使いなれるとモリサワでも愛着がわいた。資金的な制約もあったし、リュウミンの登場が大きかった。よくしてくれたモリサワの営業の顔も立てなければならなかった。
初代廃棄後 MC-6 を1台、人を雇用してもう1台入れた。
4台目・電子制御式手動写植機「ROVO V」の導入
1983年(昭和57)モリサワは、CRT ディスプレイを搭載した電子制御式手動写植機「ROVO V」を発売」する。CRT ディスプレイは、印字したすべての文字を映し出すものではなかったが、デザイナーの長年の悲願ともいえる、詰め打ちに対応したものだった。
今までの手動写植機は、手元のハンドル(右手操作)を下に向けておろす動作が3段階になっていた。左手操作で文字盤を載せたテーブル(縦横斜め自在に動く)を動かし、目的の文字を見つけ写口(光源ランプの光を拾う口)の真下に持ってきたら、第1段階で文字盤の固定を行う(ガチャンの音で止める)。そしてすかさず第2段階のシャッターを切り、下まで振り下ろしてラチェットを回転させ、文字送りをする動作を行う。
文章で書くと、えらくトロいが、実際はすべての動作が1秒足らずのうちに完了する。熟練してくると活字を拾うよりはるかに速い。
「ROVO V」では、ハンドルがなくなり、ボタン操作に切り替わった。
「ツメ打ち」がすごいことになっていた!
CRT ディスプレイの操作に切り替えると、2段階目のシャッターを切らずにディスプレイ側に光が移動し級数、文字送り歯数などを記憶しながらディスプレイに文字映像を映す(疑似シャッターと呼んでおく)。これで1文字目が完了。
ここからがすごい。2文字目を固定、画面を見ながら文字間を詰めるカーニングを行い、疑似シャッター。これを繰り返す。これでカーニング値が記憶される。途中で級数を変えて、ベースライン位置を変えてもすべて記憶する。だから、かなり複雑な詰め打ちが可能になった。
すべての文字を「打ち終わったら」、CRT ディスプレイの操作を解除。再び文字を拾いシャッターを切ると、あら不思議。カーニング値を記憶しているので、勝手に詰め打ちをしてくれる。級数を変えたりベースライン位置も自動的に動く。レンズターレットが小気味いい金属音を立てて勝手に動くさまは圧巻(あらら、ターミネーター?)だった。ただ、文字を探す動作までは覚えてくれなかった(ここは手動)。
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