第3回
2. 入りたい部活がない!
「ガリ版」との出会い
世の中が東京オリンピック(第18回夏季五輪)の開催で沸き立った1964年(昭和39)4月、私は中学生になった。
中学生になると、部活がスタートした。運動部は敬遠した。体力が少し回復していたとはいえ、病弱だった期間が長く、運動は大の苦手だったからである。かといって、文科系の部に、これといってやりたいものはなかった。「帰宅部」が通らない時代(いまでも通らないか…)である。しかたなく、文字に縁があるということで新聞部に入った。
この当時の新聞部の活動は、学校でのできごとや、趣味の発表などをまとめて校内新聞を作ることだった。当然、コピーやパソコンはまだ存在していなかった時代である。大量印刷を廉価でするためには手書きの「ガリ版」が主流であった。先生がたも、多部数の書類を作る場合は「ガリ版」を使用していた。
ガリ版を今どき知っているかたはいないと思うのでちょっと簡単に説明を。
デザインの原点は「ガリ版」
ガリ版とは、謄写版(とうしゃばん)という印刷手法の通称で、ロウ紙と呼ばれる特殊な原紙(薄葉紙にパラフィン、樹脂、ワセリン等の混合物を塗り、乾かしたもの)を専用のヤスリ(鑢盤)の上に載せ、鉄筆(てっぴつ)と呼ばれる先のとがった(そうでないものもある)筆記用具で文字やイラストを書くのである。
そうすると、ヤスリのとがった部分と鉄筆のとがった部分が当たったロウ紙には小さな孔が空く。ロウ紙は極めて薄く弱々しいが強靭で、ちょっとこすったくらいでは破れない。文字やイラストを書いた部分は小さな孔の連続体がである。(孔が空くことから「孔版」とも呼ばれていた)
そうしてでき上ったロウ原版を、謄写版という、木枠にシルクスクリーンを張ったものに貼り付け固定して、印刷する用紙を下に置く。インクをまんべんなく塗ったローラーでシルクスクリーンの上からこすると、ロウ紙の孔のあいた部分からインクが漏れて、紙に付着し、印刷物ができ上るという寸法である。
ガリ版という通称の由来は、文字を書く際、ヤスリと鉄筆のこすれあう音が「ガリガリ」という音がするところからきている。原理を作ったのは、かの有名なトーマス・エジソンだという。よく考えられたシステムであった。
ヤスリは、目の粗いものから細かいものまで数種類あった。文字を書く場合は細かいヤスリ、面を塗りつぶす場合は粗いヤスリが適していた。面を塗りつぶすには、ヘラのような鉄筆を使う。ヘラの腹でこすると広い面積を塗りつぶすことができるのである。力の入れ加減で、グラデーションも作ることができる(相応の技術が必要)優れものだった。鉄筆も太字用や細字用など用途に応じて何種類もあった。
無意識レベルのタイポグラフィ
私は、このガリ版に心を奪われた。この原理は、当時の私には衝撃であった。見よう見まねで明朝体やゴシック体を書いて、ひと味違った見出しも書いた。これが校内で評判になり、先生がたの手伝いをしたり、卒業文集などの「ガリ切り(原版制作のこと)」を頼まれた。
この年齢にしては、達筆であった。文字は書き順をまもること、書き続けることで、ある程度うまくなるものである。
卒業文集のガリ切りをしていたときのことである。当然のことながら、生徒が書いたものが集まってくるが、きちんとした文体になっているものはわずかしかなかった。中には、始めと終わりがまったく別物の「ハチャメチャ」な原稿もあった。こんなものが文集として残れば、彼ら彼女らの恥をのちのちにさらすことになる。
私は、ガリ切りをする前に「校閲」を始めた。幼少期からたくさんの本を読んでいたことが活きた。文章の良し悪しを判断する能力が知らない間に身についていた。
タイポグラフィとは文字を中心にしてデザインしていくが、文章を整えることも重要な要素だと私は思っている。この当時、それを意識してはいなかったが、デザインの基礎的な部分を無意識で始めていた。
これらのことが私を文字デザインに目覚めさせ、やがてデザイン全般に心がシフトしていくのである。
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