第2回
1. 幼少期の闘病
奇跡的に助かったいのち
私は、1952年(昭和27)今から67年前(2019年現在)の厳寒2月に、千葉県市川市の真間(まま)というところで生まれた。市川市は東京都のベッドタウンとして発展してきた。南側の東京都江戸川区と隣接している。真間は市川市の北部、京成電鉄本線「国府台駅」近くに位置する。万葉集にも登場するなど、閑静で歴史の深い住宅地である。
万葉集には、舒明天皇の時代(飛鳥時代)に、この真間に手児奈(てこな)という絶世の美女が住んでいたと詠まれており、彼女をめぐる男たちの醜い争いに絶望した手児奈は、真間の入り江で入水自殺をはかったという伝説が残っている。
この伝説にゆかりの入り江に架けられた「真間の継橋(つぎはし)」(現在は川自体が存在しないため、橋の欄干を模した記念物や石碑が設けられている)は、奈良時代から鎌倉時代にかけて多くの歌人たちによってに詠まれている。現在の市川市周辺は万葉集に多く取りあげられており、当時の都(奈良・平城京)においてすでに広く知られる場所であった。
近代においても文学者に好まれた土地で、戦後、隣接する菅野および八幡に居住した永井荷風が、文学的にも価値の高い自身の日記「断腸亭日乗」や小説「来訪者」、随筆「葛飾土産」の中でそれぞれ真間近辺のことを描いている。また、北原白秋、幸田露伴ともゆかりが深い。
この地区を東西に貫き東京湾に注ぐ、利根川水系の一級河川「真間川」が流れており、この土手でよく遊んだ。ある日、ここに設置されていた長いブランコ(長さ3メートルくらいの太い角材の両端をロープで縛り、揺れるようになっていたものと記憶:当時私の家では「長ブラン」と呼んでいた)から転げ落ち、とがった石で右目の外側を突き刺してしまった。血だらけの私をかかえて母は病院へ駆け込んだ。あと2ミリ内側だったら失明していた。いまでもうっすら傷跡が残っている。
大病を患う前のことであった。
私は、生まれつき体が弱く、3歳のころ小児肋膜炎という肺の病気にかかってしまう。
肋膜とは、現在では胸膜(肺の外表面と、胸壁の内面、横隔膜の上面などを覆うひとつづきの薄い膜)と呼ぶようである。要するに小児のかかる肺炎らしい。
肺炎は医学の進歩した現在でも恐ろしい病気である。多くの体力の弱い小児やお年寄りが毎年相当数、いのちを落とす。この当時、私もご多分に漏れず医師から「助からないかも知れない」といわれたそうである。だが、担当医師の懸命な治療のおかげで、「奇跡的(医師のことば)」にいのちをとりとめ現在がある。
まことに心配ごとの絶えない手のかかる子どもだった。反抗期はほとんどなかったと聞くが、親にとっては、むしろそのほうがよかったかも知れない。
いのちは助かったとはいえ、もともと病弱だったせいもあり、体力はなかなか回復しなかった。当然、外で元気よく遊ぶということはできない。そのため興味は書物に向かっていった。
文字への憧れと執着
当時の我が家はたいへん貧しかった。そんなにたくさんの本があったわけではないが、文字を知らない幼児の読める代物ではなかった。しかし、私の文字に対する執着は異常だったようである。どのようにして文字を覚えていったのか記憶が断片的で定かでないのだが、小学校にあがるころには、すでに中学校高学年レベル(当時の担任評価)になっていた。
漢字は、偏(へん)や旁(つくり)、冠(かんむり)や脚(あし)など、部首に分解して覚えていた。文字の成り立ちから連想して覚えると、記憶する速度と正確さが増す。誰に教わったわけではなかったが、そういう技を身につけていった。
文字が好きで好きでたまらなかった。家で閉じこもって本ばかり読んでいたので、協調性は育たなかった。小学校にあがったはいいが、国語以外の授業を受ける気持ちはまったくなく、算数の時間でも国語の教科書、図工の時間でも国語の教科書を出して、先生を困らせた。
絵を描くことがいやで、いつも画用紙を白紙で出していた。何回かそれが続くと、先生も堪忍袋の緒が切れた。烈火のごとく叱られ、放課後残された。大泣きしながら苦手な絵を描いたことをよく覚えている。文字と対照的なくらい絵が嫌いだった。
絵が描けないことが、最大のコンプレックスになっていった。このことが、のちのちの私の進路に大きく影響していくことになる。
第1回 私のデザイン変遷史を書くにあたって
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