第6回
印刷を下支えした「母型」の製造
1884年(明治17)、アメリカのアメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF = American Type Founders)の重役だったリン・ボイド・ベントン(Linn Boyd Benton)によって「ベントン彫刻機」が考案された。この画期的な「母型彫刻機」が、我が国の活字の母型製造に革命を起こしていく。
1949年(昭和24)、津上製作所という工作機械製造会社が、大日本印刷(旧・秀英舎:1935年〈昭和10〉に日清印刷と合併し大日本印刷となった)と、当時「ベントン」の先駆者的存在だった三省堂の技術協力のもと、ベントン彫刻機を模した国産彫刻機を完成させる。
実はこれに先立つ1923年(昭和12)、三省堂が国内では3台目の「ベントン彫刻機」を手に入れる。すでに2台が輸入(1台目:印刷局〈内閣所轄:現・国立印刷局〉、2台目:東京築地活版製造所)されていたものの、いずれも使いこなされてはいなかった。本格的に稼働させたのが三省堂であった。
時代の趨勢として逃れようのないことであるが、このことが、連綿と続いてきた種字彫刻師の系譜を徐々に蝕み途切れさせていく。
(三省堂 サイト:ことばのコラム 「書体」が生まれるーベントンがひらいた文字デザイン)
(国立印刷局 サイト:お札と切手の博物館 活字の文字を彫刻する機械 ベントン彫刻機)
パンタグラフというと何を連想するだろうか。おそらく大半のかたは電車の屋根の上に取り付けられているひし形状の「集電器」を思い浮かべるはずであるが、もうひとつ「拡大・縮小器」を指すことがある。
パンタグラフは、学校の理科や数学の授業で実験した記憶があるかも知れない(いまの若年層はどうなのだろうか)。いくつかの均等幅に穴の空いた4本の細い板があれば簡単につくれる。私がくどくど説明するよりは、以下のサイトでわかりやすく解説している。
(筑波大学数学教育研究室 サイト:代数・幾何・微積 For All プロジェクト/数学史/「パンタグラフ」の仕組み)
さて、ベントン彫刻機であるが、このパンタグラフの原理を応用している。この方式は、拡大・縮小が支点をかえるだけで細かく設定できるので、ひとつの「原字」(原版:パターンと呼ばれた。以下「パターン」)で数種類のサイズの母型がつくれるという利点をもっている。
使用された「パターン」は、複数の「書体設計士(?)たち」によって紙に正体でデザインされた。大事なフォルムのデッサンは主幹の設計士が行い、それをもとに輪郭を描く・墨入れをするといった分業であった。この文字を、5cm四方の薄い亜鉛板に写真製版法で陰刻(文字や模様をくぼませた彫りかた)し制作された。
このくぼみの輪郭に沿わせて、フォロアと呼ばれる極細の針でトレースされた情報が、パンタグラフを伝わって縮小され設定した母型サイズに彫られていく。
ベントン彫刻機導入以後、どのくらいの種類の母型が生み出されていったのか、記録を探したが残念ながら見当たらなかった。あくまで私の推論にすぎないが、たとえば本文系の細明朝であれば、号数活字では8号・7号・6号、当時導入されたばかりのポイント活字では、6ポ・7ポ・8ポ・9ポの計7種類ものサイズが1種類の「原版」ですむはずである。
当時「書体設計士」と呼ばれていたかどうかはわからないが、彼らの手によって「文字原版」の制作という新たな工程が生まれた。現在でいうタイプデザイナーの仕事と同じである。これも大変な作業には違いないが、この工程が増えてもなおかつ余りあるほどの省力化がはかられたことになる。その意味では一大革命といってよかった。
また、この彫刻機のすごいところは、活字の肝である凸部(インクのつく文字部分)つまり母型でいう凹部の平滑度が群を抜いて優れていたことである。母型彫刻機はドイツでも製造されたが、肝心の凹部が、波打った状態で、とても使いものにならなかったらしい。
ただ、ベントン彫刻機といえども欠点はあった。それは、微細な表現まではできないことだった。さきほど紹介した「フォロア」だが、極細とはいってもやはり太さはある。この太さのせいで、小口まで正確には掘れなかった。とくに明朝体は致命的であった。鋭角の先端は、どうしても丸くなり、シャープさに欠ける仕上がりにならざるを得なかった。
便利さには、必ず、それによって失われる負の部分も伴う。完璧なものなどあり得ないのだ。精度という面では、種字彫刻師が丹精込めて彫刻した明朝体には遠くおよばなかったのである。
「ベントン彫刻機」が登場するまで、母型は種字彫刻師といわれる凄腕の職人(超人と呼んだほうがふさわしい)たちによって制作されていた。
人間技ではない種字彫刻師たちの仕事
種字彫刻師によって彫られたものは「父型」と呼ばれた。「父型」は、鏡像の状態で彫刻される。最大の初号でも約15mm四方、最小の8号に至っては1.75mm四方程度しかない。ただでさえ困難を極める彫刻なのに、これが鏡像なのである。想像を絶する作業をこの職人たちは行っていた。しかも熟練工ならば、一日に40本は彫ったというのだ。絶句するほかない。
種字彫刻師たちは、その功績とは裏腹に、名前がほとんど残っていない。名前が残っている数少ないなかに東京築地活版製造所(1938年〈昭和13〉に廃業)最後の種字彫刻師、安藤末松がいる。この人に面白いエピソードがある。
彼が、ご子息の授業参観か三者面談(だと思う)にいった際、担任の先生から「安藤さんは活字の字は上手だけど、普段書く字はそれほどでもないですね」といわれたそうである。文字のバランスは鏡像でないととれないという、いわば職業病(?)だったわけである。
そういえば、現在の書体デザイナーのなかにも、普通の字は「たいしたことない」人が多い(?)ということを風のうわさに聞いたことがある。
私も普段の字は「たいしたことはない」。というより、パソコンで仕事をするようになってから、文字を書く機会が極端に少なくなったことで自分でもびっくりするくらい「ヘタ」になった。昔は達筆だといわれていたのになぁ…。
話が横道にそれた。軌道修正…。
種字彫刻師によって彫られた父型をもとに電胎母型という方法で母型を作っていく。この電胎母型は1950年代の半ばに事実上終焉する。終焉を迎えたということは、「父型」を彫る超人たちがいなくなったことを意味する。
電胎母型の製造方法は概略次のようなものである。
ベントン彫刻機以前の「母型」はこうして作っていた
まず、柘植(つげ)の木を活字の原寸大に加工する。これを駒と呼んだ。その頭に彫刻刀で鏡像を彫り「種字」を造る。
次に、蜜蝋を主体に松脂や黒鉛粉を混ぜ合わせた蝋材を熱して溶かし、平たい蝋盆と呼ばれる盆に注ぎ込む。これを2~3時間かけて冷やし、完全に固まる寸前のタイミングで「種字」をプレスして文字を型取る。
これに電導性を与え銅メッキをし凹型(ガラハという)を造る。この段階ではメッキの厚みのみのごく薄い金属箔なので、裏側に薬品で溶かした亜鉛を流し込み固める。こうして補強したガラハを母型用の真鍮(マテという)にはめ込み母型が完成する。
なお、種字彫刻師が父型彫刻に使用した材料には、柘植(つげ)のほか、活字とほぼ同じ材質の鉛合金もあった。どちらを使うかは種字彫刻師の好みによったようである。
活版に使用する活字は、5号活字や6号活字といった号数活字や、のちに追加になったポイント活字を含めると、10数種類以上を必要とした。和文は最低でもひらがな、カタカナ、漢字、約物など合わせて最低でも3,000文字以上なければまともな文章は組めない。
そのすべての原字を種字彫刻師という無名の超人たちが彫ったのである。とても人間技ではないと驚嘆すると同時に、その後の写植、デジタルフォントという活字文化の潮流を作った彼らの働きに深い感謝の念を抱かずにはおれない。
(JAGATアーカイブ サイト:フォント千夜一夜物語 近代活字母型製作の歩み(1)-印刷100年の変革)
(JAGATアーカイブ サイト:フォント千夜一夜物語 活字書体から写植書体、そしてデジタル書体)
(ヒラギノサポート サイト:タイポグラフィの世界 書体編〈PDF〉)
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