第13回
8. 独立と結婚
船橋の印刷所には5年間お世話になった。さまざまなことがあったが、この5年間は私にとって掛けがえのないものになった。
私は、自身のデザインレベルがいま、どの程度のものなのかを試したくなった。いろいろ考えた末、千葉市の小さなデザイン事務所に移籍する。1972年(昭和47)のことである。ここで約8か月間お世話になった。
正直、ここでのできごとはあまり記憶に残っていない。程なく沸き上がった独立への流れに神経を使ったせいだった。ただ、デザインでやっていけるという感触をつかんだことは確かである。
結婚のこと
独立は、ある筋(決していかがわしいところではない)の強力な支援のもと、急転直下決まった。といっても実際の起業までにはそれなりの準備が必要だった。そして21歳になった1973年(昭和48)に晴れて独立した。そして、ほぼ時を同じくして、一年ほどの交際期間を経た女性と結婚した。
彼女は、青森県出身、男3人、女5人の8人兄弟の末っ子であった。大家族である。いまの若いひとには想像もつかないだろうが、中学卒業後集団就職で青森から上京していた。当時はこれが当たり前の流れだった。東京の理髪店に何年か世話になったあと、彼女を住み込みで迎えたのは、同じく東京の江東区亀戸(かめいど)で縫製業を営む夫妻のところだった。とても面倒見のよい素敵なご夫妻だった。彼女がここに就職して一年がたったころ、会社ごと私の住む鎌ケ谷に移転してきた。
すぐ近所だったことから知り合い、交際が始まった。独立の件は交際途中で話した。将来の不安があったにもかかわらず、応援するといってくれた。結婚資金も独立が重なったため十分には用意できず、ブライダル業者を一切使わない、何から何まで手作りの結婚式となった。友人たちも奔走してくれた。
隣町に彼女の親代わりだという7歳上の姉夫婦がいた。義兄は社会経験が豊富だが自分が物差しのひとであった。結婚の報告にいった際、二人とも若かった(私21歳、彼女20歳)こともあり、さんざんけなされ反対されたが、意に介さず堂々と自分の意見を貫いた。姉は結婚式に出席してくれたが、このひとはこなかった。
こんな状況のなか、私たち二人を心から支え応援してくれたのが、縫製会社のご夫妻だった。大変ありがたかった。本当に度量の広いすばらしいご夫婦であった。
千葉市椿森で開業
話を独立に戻そう。
千葉市の椿森というところで開業の運びとなった。理由は主要なクライアントがみな千葉市にあったからである。国鉄(現・JR東日本)千葉駅から総武本線で一駅目「東千葉」駅前の小さな元商店をお借りした。この東千葉駅は、千葉駅から1㎞あるかないかのわずかな距離だった。交通費がもったいないのでいつも歩いて通勤した。
3坪程の店舗で、通りに面した側に出窓のような小窓がひとつしかなかった。この作りから推測するとタバコ屋だったのかも知れない。棟続きの奥に大家さんが住んでいて、毎日のように顔を合わせよく話をしたが、そこは聞きはぐった。狭い空間だったが、一人で仕事をするには十分な広さだった。
モリサワの試作機(?)
件の「ある筋」の紹介で知り合った千葉市の大手印刷会社から、そこにあったモリサワの試作機(?)のような古めかしい写植機を二束三文で譲り受けた。はたちを過ぎたばかりの若造である。結婚も重なりまともな開業資金などあるはずがなかった。
写研の機械で独立するのが夢だったが、それは叶わなかった。またしてもモリサワの呪縛に苦しむことになる。
この試作機のような機械だが、立派に機能した。ただ、マガジンでなく、金属の筒に長~い黒い布を巻き付けたものを、蓋つきの本体にセットする方式になっていた。
中心の金属の筒に印画紙を留める爪がついており、印画紙をセット。長い布は、印画紙が感光しないようにするためのもの。これをぐるぐる巻きにして、機械本体の金属棒に布の端を固定する。蓋を閉め、ゼンマイの力で金属棒に布を巻き取らせる(このときの動作はスイッチか何か押したんだったかな? よく覚えていない)。蓋の中の密閉空間がマガジンの代わりなのだった。この真っ暗な中では印画紙が裸の状態で印字されるのを待っていた。
あとの操作は、この当時の主流機 MC-6 とほぼ変わりなかったが、大きい級数(70級~100級)のレンズが不完全だった。四隅が湾曲してしまうのである。この原因はレンズ精度の不備もあったが、おもにゆるやかなカーブを描くマガジンの形状にあった。曲面に当たる光は曲面の上下部分の角度が90°でなくなる。したがって、画像が「流れてしまう」のである。街角にあるカーブミラーを想像してほしい。そんなような映りだった。
これでは使いものにならないので、大丈夫な限界サイズ、62級で打った。たとえば100級の文字が欲しいときは、製版指定して製版所で拡大してもらわなければならなかったが、他人まかせで時間がかかるうえ、デザインの感覚がつかめない。そこで、コピー機で拡大してとりあえず版下に貼り込んだ。だが、あくまで、製版指示するための「アタリ」である。まだコピー機を信用するまでには至らなかった。
この当時、コピー機の性能は格段に進歩していたが、まだしばらく印画紙の呪縛(印画紙でなくてはならないという深い思い込み)から逃れることができなかった。
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