第5回
4. 船橋市の印刷会社へ就職
話はかなり以前にさかのぼるが、私が6歳のころ、生まれ故郷の市川市をあとにし、同じ千葉県の鎌ケ谷村(現在の鎌ケ谷市)に移転していた。以後、「町」となり「市」と昇格して以降まで、かなりの長期間にわたり鎌ケ谷で生活することになる。
鎌ケ谷は、北海道日本ハムファイターズ二軍の本拠地兼練習施設「日本ハムファイターズタウン鎌ケ谷」の所在地として知られるようになった。プロ野球ファームのイースタン・リーグ公式戦も開催され、日程表などでは「日本ハム鎌ケ谷球場」などと称されることがある。
現在では東京にもほど近い中堅都市として発展している。しかし、当時の鎌ケ谷村は市川市の真間から比べると、ひどく田舎であった。「村」や「町」は住所の表示も、間に「郡」が入るため必然的に長くなる。ちなみに鎌ケ谷村は「千葉県東葛飾(ひがしかつしか)郡鎌ケ谷村」となる。ここに字名や地番が加わると、市川市のころより文字数にして2倍以上の長さになった。これだけでも「田舎」と感じたものである。
転居先を見にいくため、母に連れられてはじめて鎌ケ谷村を訪れた。最寄りの市川真間駅から京成本線で京成船橋まで行き改札をでる。そこから100mほど北に歩いて国鉄(現・JR東日本)船橋駅へ。北側にホームが隣接する東武野田線(現・東武アーバンパークライン)で鎌ケ谷駅をめざした。当時の東武野田線は、一部の区間を除きほぼ「単線」だったと記憶している。
「単線」とは駅ホーム付近で上り・下りに分かれるが、駅間は1本の線路しかないことをいう。上下どちらかが駅(交換駅)に着くタイミングで片方が駅間の線路を利用する仕組みだ。運行本数が少ない路線では設備が節約できるため、広く使われている方式である。鎌ケ谷は船橋から4つめの駅であった。船橋のつぎ、新船橋駅までは複線だったように思う。
すべてではないにせよ、子どもはおしなべて電車が好きだ。私もご多分にもれず一番先頭の運転席付近から未知の路線にわくわくしながら線路を眺めていた。新船橋駅からの発車から数秒後、衝撃が走った。なんと、上り線、下り線が合流して線路が1本になっていくではないか。「何これ!?」。同時に恐怖感に襲われた。「前から電車がきたらぶつかっちゃう!」
純然たる農村であった。駅周辺でも商店は数えるほどしかなかった。子どもながらにも、大変なところにきてしまったと感じざるをえなかった。周囲のひとは皆純朴でよいひとたちであったが、方言がきつく話がよくわからなかった。とくに、年配の女性が自分のことを「オレ」と呼んでいるのには驚いた。また、相手(きみ、あなた)のことは「イシ」。これは、若年層の男子も使っていた。地域性とはこんなにも違うのかと思った。
なお、誤解のないようお断りしておくが、田舎を馬鹿にするつもりは毛頭ない。
デザインの道に進みたかったが、オールマイティでなければならないという間違った思い込みが尻込みさせた。相変わらず家が貧しかったので高校の夜学に通いがてら、文字に関連した業種にとりあえず就こうと思った。…というのは建前。高校への進学は、親と教師の勧めだったのだが、勉強がきらいだったのと、学校そのものの教育方針に反感をもっていたため、高校に行くつもりはさらさらなかった。
有名高校の夜学を受験し受かったが、入学式には行かずに東京のおじのところに逃げた。あとで、家族の総攻撃を受けたことはいうまでもない。
デザインに対するコンプレックスが、一日も早く、何でもいいから技術を習得したいという気持ちにかりたてた。そして、中学校時代の部活選択とまったく同じ心理、文字に関連した職業という点、そしてガリ版の実績を買われ、印刷関連がよいだろうという担任の推せんもあり、隣町船橋市の印刷所に就職したのである。
活版との出会い
私が中学校を卒業し、就職した1967年(昭和42年)当時、印刷会社はまだ活版が主流であった(写植への過渡期であったかもしれない)。お世話になった印刷会社も活版印刷所だった。
ある程度はわかっていたつもりだったが、デザインとは無縁の職場だった。しかしデザインで食っていく自信はなかったので、不満に思いつつも、ここで印刷技術を習得しようと思った。
活版は、原稿にしたがって活字を活字棚から拾っていく「文選(ぶんせん)工程」、その活字を印刷する版の形に組んでいく「植字(しょくじ・ちょくじ)工程」、その版を印刷機にセットして紙に印刷する「印刷工程」、印刷された紙の束を1000枚、2000枚単位でトンボサイズに切り分ける「断裁工程」の4工程にわかれている。そのそれぞれが、専門の職人の手によって作り上げられていく。
活字ってこうやって作るんだ!
この印刷所には、活字を作る「鋳造部門」もあった。活字鋳造機は印刷関連の機械としてはコンパクトなものだった。背丈の低い人と対面している感じ、といえば想像つくだろうか。良く考えられた機能性豊かな優れものだった。
活字の原料は鉛とアンチモン、それに錫の合金である。メーカーにより混合率が異なるが、代表的な比率は、鉛が約80%、アンチモンが約15%、錫が約5%であった。その形状は「金の延べ棒」を思い浮かべてもらえばいい。その「鉛の延べ棒」を機械の上部から差し入れ、ガスの熱で20cm四方くらいの炉の中でドロドロに溶かす。
鉛の融点は極めて低い。純粋な鉛だと327℃。232℃が融点の錫と混ざると、なぜかそのどちらよりももっと低くなる。炉の中で熱するとみるみるうちに溶けていく。
その溶けた鉛を、活字サイズのトンネルの手前にセットされている「母型」といわれる字母に向かって射出・冷却と同時に衝突(母型のほうからぶつかっていく)させ、活字を作りだしていく。1秒間に1本くらいの速さだったと思う。「ガチャコン、ガチャコン」という規則正しい機械音がいまだに耳に残っている。
意地の悪い(悪意はない)先輩職人に、真顔で「母型の打ち出すタイミングが狂うと、溶けた鉛が飛び出してくるから気をつけろ」と脅された。いかに融点が低いとはいえ、本当に飛び出てきたら大やけどである。冗談だと思いながらも、真顔でいうので怖くてたまらなかった。しかし、そんな事故は私が在職中は一度も起きなかった。
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