第4回
3. 通信教育「日本通信美術学園」での受講
文字デザインの目覚め
そんな矢先の13歳のころだったと思う。新聞に通信教育の特集広告が載った。その中の「日本通信美術学園」に目が止まった。文部省(現・文部科学省)認定とのことで、信頼性はあるのだろうと思った。まだ相変わらず家は貧しかったが、意を決して母に相談した。「受講してみたい」と。
何かと学校で問題を起こしては困らせていた息子が、向学心に燃えている姿が嬉しかったのかもしれない。快く学費を出してくれた。「レタリング(文字デザイン)」と「スタイル画」を申し込んだ。スタイル画は、苦手な絵を克服したかったからである。
レタリングはもともと文字が好きだったこともあり、順調に課題をこなし上達していったが、スタイル画はどうしても好きになれなかった。絵に対する苦手意識は容易に克服できるものではなかった。そして、早々とあきらめた。学費がムダになった。心がとても痛かった。
レタリング一本に絞った私は、この学園が主催する、年に一度の作品展「日美展」に応募する。この展覧会は大規模なもので、最盛期は5万点もの応募があったという。
初回は見出し明朝体で挑戦した。課題はよく覚えていない。自信はあったが落選であった。あとから知ったのだが、同期にはのちにグラフィックデザイナーとして大活躍していく錚々たるメンバーがいた。この当時から彼らの作品は群を抜いていた。私は、レタリングの技術は未熟だったが、審美眼はあった。到底かなわないなと早くも白旗をあげた。
そして翌年、2度目に挑んだ。オーソドックスな明朝体と、無数のドットで構成したデザイン文字「光の踊り」を出品したが、「光の踊り」が学園の「奨励賞」、スポンサー企業・旺文社の「旺文社賞」を受賞するのである。明朝体で受賞できなかったのは悔しかった。なぜなら、デザイン文字はあくまで「抑え」で描いたにすぎなかったからである。
とはいえ、素直に嬉しかった。だが、同時に絵が描けないことへの不安がよぎった。将来的には、デザインの道へ進みたい。いままで漠然とした願望だったものが、賞を取ったことで何か急に現実感を帯び、それが逆に恐怖心へと向かうことになっていった。明朝体で入賞できなかったことも、心に影を落としていった。これでいいのかと…。自信のない人間の陥りがちな心理状態である。
このころ、デザインという仕事はオールマイティでなければならないという、強い思い込みを持っていた。その思い込みが、進路を大幅に遠回りさせていくのである。
デザインへのコンプレックス
作品展が東京で開催された。会場ではたくさんの作品が展示されていた。この学園で教えているデザインジャンルは幅広く、グラフィックデザイン・似顔絵・スタイル画・イラストレーション・レタリングなど多岐に渡っていた。
特に、似顔絵、スタイル画は圧巻であった。どの作品も習いたての素人が描いたものではなかった。入選・入賞を果たしてくるのだから、当然といえば当然だったが、それにしてもすごい作品ばかりだった。
当時、この学園での入選、入賞はそれなりのステータスがあった。スポンサー企業も名の知れた有名企業が多かったし、審査員も著名人ばかりであった。だから、すでにプロとして仕事をしている人たちも数多くいたと思う。
それに対比して、文字のデザインは、他のジャンルに比べるとどうしても華やかさに欠ける。それが、私の眼には絶望的なものに映った。絵が描けないという、心のなかに深く打ち込まれたくさびのようなコンプレックスが頭をもたげた。嬉しさなど、どこかに吹き飛んでしまった。
現在でこそ文字デザインは、タイポグラフィという立派なジャンルの重要な一部分で、タイポグラフィこそがデザインの大部分をしめる決定的なものだということが定着しつつある。ゆえに、それをやってきたことを誇りに思うし揺るぎない自信があるが、当時はそんな概念は露ほどもなかった。
帰りの電車を乗り過ごすほど、私の気持ちは落ち込んでいた。
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