第15回
バブルの崩壊
1986年(昭和61)にバブル経済が始まってから、1991年(平成3)2月にバブルがはじけるまで異常な好景気が続いたが、1991年3月から1993年(平成5)10月までの期間に、そのしっぺ返しがくる。いわゆる「バブルの崩壊」である。以後、泥沼のような長期の経済衰退が起こり、現在もまだ、それを完全には抜け出していないように思う。
当然、私もそのあおりを受けることになる。言葉は悪いが、あれほど「腐るほどあった仕事」が津波のあとの引き潮のようになくなっていった。日本中のありとあらゆる業種が内製化へと向かい、守りを固めていく。お金の流れが完全にストップする、もはや誰も止めることのできない非常事態に日本経済が追い込まれていくのである。
防衛策を余儀なくされた。デザインの比率が低くなったことで、ページものへシフトせざるを得なかった。写植は手動写植から電算写植へと大きく方向転換していった。ただ、本格的な電算写植を導入するほどの余裕は当然ない。そんなとき、日ごろ付き合いのあった印刷機材の販売会社から九州松下電器という松下電器の子会社がつくった電子組版機の提案を受けた。
ほぼ同時に他社から Mac の提案も受けたが、デザインよりどちらかというと印刷寄りの思考経路になっていた私は、この時点ではまだ Mac の良さを理解することができなかった。そして電子組版機の導入を決めた。この選択が良かったとは決して思えないのだが、やがて気付くことになるこの「システムの大きな負の部分」が、本来やりたかった「文字を作る仕事」への情熱を喚起するきっかけになっていく。
電子組版機「KX-J1010」の導入
電子組版機は値段も手頃(?)であった。だが、その分、機能も限定的なものだった。原理はワープロと基本的に同じだったが、印刷用に開発されたため、フォントが当時としては高精度で、印画紙に印字されるタイプだった。
このシステムは、組版機本体の何倍もある、イメージセッター(65cm四方くらいのサイコロのおばけのような立方体)に印画紙をセットし、そこに文字データを印字する方式であった。そしてさらにその2倍以上は優にあろうかという自動現像機がセットになったものである。けっこう場所をとった。
組版は CRT ディスプレイに表示されたので、イメージをつかむのが容易であった。この組版機の秀逸なところは、表組みが実に簡単なことだった。
罫線をひくと、交わった矩形一つひとつに自動的にさまざまな属性が備わるのである。たとえば、文字サイズの設定、行間設定、パディング、左揃え、中央揃え、右揃えなど、その設定項目は多岐にわたっていた。伝票類作成の仕事が多かったので、とても重宝した。写植時代の3倍くらいは能率的だったと思う。
また、トンボも同時に印字でき、写真や大きいサイズの文字のスキャニング(単色)もできた。さらにフィルム出力もできたので、A4 までのサイズで1色および2〜3色刷(色分解をともなわないもの)であれば、版下も書かずに済み、製版所にフィルム出力を依頼しなくても済む(つまり製版指示もなし)ようになった。
むりやりWYSIWYG(ディスプレイに現れるものと処理内容[特に印刷結果]が一致するように表現する技術)のまねごとをしたのだった。ただ、2色・3色の仕事はディスプレイが色で表現できるわけではなかったし、分版が手作業で大変面倒だった。もともと、そこまで考えられてできている機械ではなかった。それに4色カラーには当然ながら対応できなかった。
負の部分がフォントへの意識を喚起
さて、「システムの大きな負の部分」と先に書いたが、これはフォントのことである。このシステムのフォントはビットマップフォントであった。別名をドットフォントといった。つまりドット(点)の集合体なのである。制作に大変な労力を要するため、値段が1書体100万円もするものもあった。当然何書体も揃えられる代物ではなかった。
ドットフォントのため、大きいサイズでは当然バリが目立つ。線も直線しか引けず、曲線が描けなかった。したがって、このシステムは文章ものにしか使えず、満足にデザインをすることもできなかった。外字を作成して登録することはできたが、ドットを編集しなければならず、恐ろしく手間がかかった。実用的にはほど遠かった。極めつけはデータの互換性のない閉鎖的なものだった。
この「負の部分」が逆に、デザインに対する情熱と、自社フォントを作ろうという強い意識を呼び起こしたのだった。
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